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No.4352
夫がクリスチャンなんですが、、、
by 無宗教 from 無回答 2004/09/12 11:38:43

夫はクリスチャンです。私はクリスチャンではないのですが(無宗教)、その考えを否定するわけではなくむしろ協力的にしています。食事の前にはお祈りするし、日曜日には教会に行きます。
その夫が今年から教会のユースリーダーをすることになり、その打ち合わせにこないだ行ってきました。そこで去年あった答えるのに戸惑った子供からの質問というのに、「○○君の両親はクリスチャンじゃないけど、ということは彼らは地獄おちるのか?」というものでした。そこにいたリーダーも○○君もグループの子からそんな質問をみんなの前でされ戸惑ったということでした。
この話から、夫がクリスチャンの死後の考えについて私に話し出しました。やはり、イエス様を受け入れたクリスチャンは天国にいけるけど、キリスト教の存在を知りながらそれを受け入れなかったものは天国にはいけないと。
別に私にむかって言ったのではなく、一般論としてこの話をしたのですが、クリスチャンじゃない私は複雑な思いで聞いていました。
夫は私もクリスチャンにいつかはなってほしいと思っています。だからといって無理知恵をするわけでもなく、むしろ私が日本人で違う文化背景で育ったから簡単に考えを変えることが出来ないと理解的です。ただ、たまにこういったキリスト教の教えについて語られた時にじぶんとのギャップを感じます。
クリスチャンの教えで共感できるところはたくさんあるし、子供もクリスチャンになってもいいと思っています。私も出来るものならクリスチャンになってもいいとさえ思っています。ただキリスト教は頭ではいい教えとわかっていても、心でイエス様を唯一の神様と思うことが出来ないのです。そんな中途半端な気持ちでは洗礼を受けてもきっと本当のクリスチャンにはなれないでしょう。
私と同じような状況にいる方、またいた方、どうやってご家庭でこのような宗教問題を扱われていますか?

Res.1 by 無回答 from バンクーバー 2004/09/12 12:56:38

私はクリスチャンではないので、場違いなレスかもしれないですが、疑問に思うことがあるので書かせていただきます。

神様を信じるということは、洗礼を受けるということでしょうか?今すぐクリスチャンにならなくても(洗礼を受けなくても)、神様の教えを学んでいくうちに、洗礼を受ける気持ちになるかもしれないし、ならないかもしれないし、というような長期的な気持ちではいけないのでしょうか?  
Res.2 by はーふ? from バンクーバー 2004/09/12 14:57:18

私の主人もクリスチャンです。
彼は洗礼も受けてますし、神を本当に信じています。ですが、カナダの一般的なクリスチャンとは少し違います。
クリスマスを祝わないし(エホバじゃないです)、カソリックともプロテスタントという分け方はしません。カナダを含め、欧米人の教会というものは、パフォーマンスであって、キリスト教とは場所や豪華さなどは問わず、牧師なり神父なりが先頭に立ち、教えを説き、質問をなげかけ、皆でディスカッションしたり、とにかく、テレビで見るような教会の豪華さは必要ない!宗教はSHOWではないと言っています。彼は喜びを神に感謝し、私の為にもお祈りしています。そういう行為は、クリスチャンではない私には出来ませんが、彼が、誰かのために祈っている姿は、素敵な事だと思っています。

私の母は、浄土真宗のお寺の家系で、早い話、お寺とは親戚なのです。昔から由緒ある家系の口で、幼い頃から寺にお世話になる機会は多く、私の代もこの縁は近いものです。そんな母なのですが、彼女の受けた中高教育は、敬虔なカソリック系のお嬢様学校。おまけに彼女が就職したのもこの学校教員で、フシギなのですが、幼い時から私が受けた教育とは、神仏共存の教えだったのです。
そんな私も、大学はプロテスタント系の私大で、学内講堂も良く通い、牧師とも快く話し、近所の教会にも時には行っていました。
ある意味、私は、どちらにもなりきれず中途半端な宗教なのかも知れませんが、うまい具合に、いいトコどりをしているようにも思います。

母からの教えは、『神様はいつでもどこでも見ている』でした。いい事も、悪いこともです。だから、良い事をしても誰も評価してくれないと嘆いたときも、きっと神様が・・なんて思っていたのかもしれません。『○○ちゃんばかりずるい』と言った時も、『神様はいつも平等』と・・。母の直筆で綴られた物語には、キリスト教的な物語が多く、その大学ノート3冊は、私がこっそり大切にしまっています。そうかと思えば、仏教の教えをお寺で住職から諭されたり、その話も親身になって聞く母もいるのです。
クリスチャンでなければ地獄へ落ちるのか・・。クリスチャンで言うところの神とは、神を信じなければ、神は民に救いの手を差し伸べないのでしょうか?神は、いかなる過ちを犯した人にも、平等なのではないでしょうか?だから、囚人であっても神に祈りをささげ、死刑であっても牧師なり神父なりが立ち会う事もあるのではないのでしょうか? 私にとって、神であれ仏であれ、何を信じるにかかわらず、神(仏)は平等であっていいと思います。
小さな子には、中々、教えにくい解釈なのかもしれませんが、お友達のために神のご加護をお祈りしたら、お友達も地獄へは行かなくてもいいのではないでしょうか?

カナダに来てから、私の宗教観念とは、一体何に属するのだろうと、考えた時期もありましたが、ある人の一言ですっきりしました。
その人は、初対面で一通りの挨拶を終えるとイキナリ『あなたの宗教は何?』と聞いてきました。複雑な気持ちで『おそらく仏教。でも、キリストの考え方も・・・』と口を濁して動揺している私に、その人は、『実は宗教は何であっても構わないと私は思っているんだ。人をいい道へ導く、その教えが善を意味するなら、何であっても構わない』と。
その時、私の宗教観にあった曇りがパッと晴れました。どちらとも着かない宗教観ですが、『善』であることは確かであると言い切れるからです。仏にしても新にしても、平和を願う気持ちは同じです。

トピ主さんの気持ちも分かります。神も仏も心の底から唯一だと思えない気持ちを私も持っているから。ましてや、神を信じるべきだと、ご近所から事があるたびに言われると嫌気が差します。信じる信じないは強要するものではないと思う私には、そういう心無い人の言葉がうっとうしくも思うくらいです。
私には、私なりの信じる道があり、クリスチャンが良い悪い、ではないのです。
平和を願い幸せを願う、助け合いの精神。そういうモノが根本的にあるので、私たち夫婦は、宗教で特に問題になる事は、今のところありませんよ。

なんだか、書いていて、気づいてしまったのですが、トピとはズレた話題になってしまったかもしれません。

自分でも、話がまとまらなくなってしまって、どうしようっなんて、困惑してます。
文才がないって、いやですわね。  
Res.3 by 無回答 from 無回答 2004/09/13 03:28:23

by 私が母になれるかなあ from バンクーバー

   
Res.4 by 無回答 from バンクーバー 2004/09/13 13:32:39

私はクリスチャンです。といっても、毎週教会にいくような敬虔なクリスチャンではありませんが。夫は無宗教ですが、無神論者ではありません。
私が子供を育てているときには、あまり一つの宗教にこだわるようにはしたくないと思っています。あくまで自分が大きくなってきたときに自分で宗教を選ぶなら選べばいいと思っています。といっても、私は小さい頃からカトリックの学校、教会にいっていて、体にしみこんだカトリックの教えがあるので、私が子供に神様のことを話すときには多少なりともカトリックに偏っている部分もあるでしょうが。それでときどき主人を怒らせることもあるのですが。。。
私の解釈では神様はボスで、キリスト教なり仏教なりイスラム教なり、、、は部下で、人々を神の道(正しい行いをする)にいくための指針を与えてくれる一つの方法なのだと思っています。ですから、質問の、「○○君の両親はクリスチャンじゃないけど、ということは彼らは地獄おちるのか?」という問いには、『正しい行いをしていれば、ちゃんと神様が天国に導いてくださるよ。』と答えると思います。キリスト教なりなんらかの宗教に入るということは、『正しい道にいくための方法を指導してください』、という意思です。正しいことをしたい、ということを強く願ったときに、つまり、この場合はクリスチャンになったときに、天国への道がひらかれる、というふうに答えるのはいかがでしょうか。

私と夫とでの宗教観というか神観というのが、

よい行いをする。
悪い行いをしない。
自分を高める。

これらに対していつでも神様はみていて、罰したり、ほめてくれたり、手助けしてくれたりするのだ、と。

で、個々の宗教のこまかな儀式なりありますが、それは、その三つを達成するための単なる手段と考えます。うまく言葉にして説明することができませんが。

クリスチャンのどの派なのかわかりませんが、イエズスは唯一の神様ではなくて、神の息子とか、神の送られた救世主と私は習いました。人としてうまれてきたからには、人間っぽい部分もあるだろうし、実際宗教を行っているのは人間だし、政治的意図から聖書を書き換えた部分もあるだろうし、書き間違え、訳し違いから聖書の本来の意図とははなれてきた部分もあるとおもうのです。で、形のない神様よりも、実際に存在した人物の姿があったほうが、よりわかりやすいというのもあるとおもいます。ということで、教義がすべて納得できるものでありえないな、とも思っています。

>キリスト教の存在を知りながらそれを受け入れなかったものは天国にはいけないと。

この部分を見過ごしていました。私の知ってるのは日本でのカトリックの教えですが、そんなことは言われませんでしたよ!これは『キリスト教』を『ただしい道』におきかえてみればよいのでしょう。むずかしい論理を理解できない人のために『キリスト教』といれて教えたのでしょう。キリスト教(ただし、いろんな人の手で書き換えられる前のキリスト教です。)なら正しい道だけれども、正しい道はキリスト教だけとはかぎらない、というところが私の考えです。ただ、なんの指針もないところで正しいことをしつづけるのはとてつもない努力がいることだとおもいますが。

なんだかまとまりのない文章になってしまいました。すみません。なにかの参考になれば。



 
Res.5 by ジュディ from バンクーバー 2004/09/13 14:32:29

遠藤周作の「深い河」という小説を読んでみることをお勧めします。あなたの疑問に答えるものではないかもしれませんが、自分の信条を形作る助けになるのではないかと思います。キリスト教のみを絶対宗教とみることが果たして相応しいことなのか?というのは、自身がクリスチャンである遠藤周作もぶつかり、苦悩した疑問なのだと思います。  
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