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東日本大震災
東日本大震災に関するトピックです。
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No.225
「僕は泣かない。お父さんがいちばん悲しいから」
by 無回答 from バンクーバー 2011/04/11 16:05:42

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110412/dst11041200450002-n1.htm

 3月11日午後2時46分。

あの日、あの瞬間から1カ月を迎えた東日本大震災では、多くの子供たちが親を亡くした。

宮城県女川町の木村夢吹(いぶき)君(7)も母の成美さん(35)を失った。周囲を気遣っていまだに涙を見せず、その小さな胸に悲しみを抱え込んだままだ。

 朝と寝る前には、笑顔の母の写真に「おはよう」「おやすみ」とあいさつをする。でも家族が成美さんの話をすると、「寂しくなるからいわないで」と怒ったような顔をする。

 成美さんはこの夏、待望の第2子が生まれる予定だった。夢吹君は、初めてのきょうだいの誕生を心待ちにしていたという。夫の隆征さん(41)は思い出す。「『ケンガができるから弟がいいな』って。間があいてできた子だったから、みんな喜んでね」。甘えん坊だった夢吹君も、成美さんの妊娠がわかった後は進んで家事を手伝うようになっていた。

 成美さんは隆征さんと同じ自宅近くの水産加工会社で働いていた。海岸から1キロ以上離れた場所に建つ頑丈な鉄骨の工場。しかし大津波は工場を突き抜け、成美さんは数日後、同僚ら十数人とともに工場内で折り重なって見つかった。

隆征さんは当時工場におらず、安置所で亡きがらと対面した。傷ひとつない眠るような顔が、せめてもの救いだった。

 家族が泣き崩れるなか、夢吹君は涙を見せなかった。悲しみの対面から数日後、隆征さんが「悲しいときは泣けよ」と避難所で声をかけると、夢吹君はこう答えたという。

「お父さんがいちばん悲しいから、僕は泣かない」

 その後も夢吹君が涙を見せることはないが、やんちゃっぷりに拍車がかかった。

隆征さんは、夢吹君が無理をしていることはわかっている。避難所で一緒に寝起きしている祖母の豊子さん(63)も、「寂しいって言ってくれた方が安心なんだけど…」と気をもむ。

 隆征さんとの職場結婚から8年。成美さんは出産に備え、震災の10日後に退職する予定だった。次の検診ではおなかの子の性別がわかる予定で、男女どちらでもいいように2つの名前も考えていた。

妻とまだ見ぬわが子を亡くした1カ月前から、隆征さんの時間は止まったままだった。何も考えられず、助けられなかった悔しさが心を埋めていた。

 震災から丸1カ月となる11日、隆征さんは自宅近くで重機に乗り、周囲を覆うがれきを動かしていた。黙祷(もくとう)するために重機を止めた午後2時46分、直前に動かしたがれきの中に見覚えのある服が目に入った。結婚後、初めて成美さんが買ってくれたお気に入りのジャージー。近くに成美さんの存在を感じずにはいられなかった。

 隆征さんは今、夢吹君と成美さんのために前を向こうと思っている。再出発の第一歩として、近く仮設住宅の入居を申し込むつもりだ。12日には2年生になった夢吹君も始業式を迎える。

 「子どもがいっから、頑張んなきゃ。夢吹が強く、優しく育つことが成美の願いだったから」。

そう口にし、雨が降り始めた空を見上げた。



Res.1 by 無回答 from バンクーバー 2011/04/20 10:54:45

「お父さん、ありがとう」妻の声津波に消え

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110420-00000025-mai-soci

 東日本大震災の津波で数百人の行方不明者が出たにもかかわらず、福島第1原発の事故に伴う避難指示で1カ月以上捜索が実施されなかった福島県浪江町請戸地区。

津波に遭い、九死に一生を得た男性の耳には、50年近く連れ添った自分への感謝の言葉とともに波間に消えた妻の声が残る。

「一刻も早く見つけてほしい」。男性は14日に始まった捜索による発見を祈るように待ち続けている。

***********************

 「真っ黒い波が数十メートルの高さに立ち上がり、一気に倒れてきた」。海岸から数百メートル先に住む無職、熊川勝さん(73)は目前に迫る大波に度肝を抜かれた。妻洋子さん(73)の手を引いて2階に駆け上がったが水位はみるみる上がり、洋子さんを抱えて顔を出すのがやっとになった。

死を覚悟し「これまで、ありがとな」と呼び掛けると、洋子さんはうなずいて唇を動かした。「お父さん、ありがとう」

 もう一度、熊川さんが「2人で孫3人の名前を呼んで終わりにしよう」と声を掛けた直後に強い衝撃があり、洋子さんが沈んだ。必死で手をたぐったが、渦巻く波に引き込まれていった。

熊川さんは着ていたジャンパーが偶然浮袋代わりになり、天井と屋根の隙間(すきま)で息ができた。引き波で家ごと沖に向かって流されかかったが、橋桁に飛び移って助かった。

その間、ずっと洋子さんの名を叫び続けた。

 その後、身を寄せた県内の親族宅も原発事故の深刻化でいられなくなり、横浜市の長女(42)の元へ。だが、原発から約5キロの請戸地区には捜索が入らないままで「原発内で(復旧の)作業している人もいるのに、何で警察も自衛隊も助けに行かねんだ」。もどかしさが募った。

 今月14日。警察の捜索がようやく始まり、熊川さんはすぐ福島に戻った。洋子さんが最後までつかんでいたジャンパーを着て、日々、遺体安置所や遺留品写真の掲示所を回る。

もし、捜索が打ち切られたら自分で捜しに行くつもりだ。「女房は『金婚式の時は、日光の紅葉を見たい』と楽しみにしていた。秋には骨つぼ抱いて紅葉見に行ぐんだ」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110420-00000025-mai-soci


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