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東日本大震災
東日本大震災に関するトピックです。
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No.184
●沢田さんの記録●
by 無回答 from バンクーバー 2011/04/06 13:56:49

釜石市中心部になだれ込む津波

海に面した高台にある港湾事務所に命からがら避難して、大津波が街に襲いかかる様子を克明に写真に収めた男性がいる。沢田幸三さん、52歳。たまたま手元にあったカメラバッグをつかんで家を飛び出し、翌朝の日の出までの物語を時々刻々記録した全233カット。

すごい記録です。

津波、静寂、街消えた 岩手・釜石で沢田さん記録/1

写真は http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20110326_2/


 長距離トラック運転手の沢田幸三さんが、東京から大型保冷車で生鮮食品を運送し、県内の市場に荷を降ろして、釜石市内の運送会社の営業所に戻ったのは11日早朝だった。

 洗車や報告書の作成をして、風呂に入ってから退社。買い物をして、昼過ぎに港湾に面した同市港町の自宅に戻った。洗濯機を回して2階の居間で昼食を取っていたら、高校の後輩の磯田志信(しのぶ)さんが顔を出し、コタツを囲んで雑談をしていた。

 それは前触れなしにやって来た。午後2時46分。いきなり家ごと揺さぶられた。巨大な手のひらでもてあそばれるように、上下左右に大きく翻弄(ほんろう)される。「ゴー」という地鳴り。家がギシギシと音を立てながら大きく揺れた。

 「自分は帰ります」と立ち上がる磯田さん。その声が聞き取れないほどの揺れだった。「危ないがら、まだいた方がいいよ」と声をかけたが、磯田さんは階段の壁と手すりを両手で押さえるようにして下りていった。

 壁の棚に並ぶ2000枚近くのCDが、次々と崩れ落ちた。半開きの茶だんすからは、グラスやコーヒーカップが飛び出して割れた。茶ダンスが倒れないように両手で押さえ、揺れがおさまるまで待とうとするが、一向にやむ気配がない。

 揺れは10分ほど続いただろうか。茶ダンスに置いた手のひらに感じる揺れが次第におさまり、やがてやんだ。「津波が来る」と直感し、革ジャンを着て、ジャージの上にジーパンをはいた。仏壇の位牌(いはい)が気になったが、「逃げるのが先」と手元にあったカメラバッグを肩に、「落ち着け」と自らに言い聞かせながら、運動靴を履いて玄関を出る。


Res.1 by 無回答 from バンクーバー 2011/04/06 13:59:11

東日本大震災:津波、静寂、街消えた 岩手・釜石で沢田さん記録/2

 向かいにある家に向かって「いますか」と叫んだが応答がなく、玄関には鍵がかかっていた。3、4軒先の80代の鈴木さん夫婦のことが気になった。旦那さんは足が悪く、早く歩けない。呼びに行こうとしたら、玄関からつえをつきながら旦那さんが出てきた。

 「奥さんは?」「まだ、うちの中だ」。玄関の中をのぞき、「早くして」と声をかけると、「はい」という返事が聞こえた。それでもなかなか出てこない。「急いで!」とせかすと、ようやく顔を出して靴を履き始めた。玄関に置いてあった風呂敷包みとバッグが目に留まり、「オレが持ちます」と手に持った。

 奥さんのおっとりとした性格が、この日はまどろっこしく感じた。「戸締まりして行かないと」。今度は鍵をかけ始める。「そんなのいいがら、早ぐ早ぐ」。脇から旦那さんが声を荒らげ、ようやく3人で歩き始めた。

 町内の裏手には飼料会社の大きな倉庫があり、敷地内が津波の際の避難路に指定されている。旦那さんの歩調に合わせ、公共ふ頭の根元にある国土交通省釜石港湾事務所を目指す。家と避難場所に指定されている港湾事務所の距離は約400メートル。その半ばまで歩いた時、2回目の地震に襲われた。

 立ってられないほどの揺れに、「危ないがら」と3人でしゃがみ込んだ。5メートルほど先の芝生から黒い泥水が10センチほど噴き上がっている。「液状化」という言葉が脳裏に浮かんだ。

 2回目の地震は2、3分で終わった。立ち上がってまた歩き始めると、並走する道を走ってきた白い軽自動車がUターンして、目の前に急停車した。助手席の窓が開き、男性が「車さ乗って」と声をかける。「お願いします」。足の不自由な旦那さんを車に乗せ、沢田さんは奥さんと急ぎ足で港湾事務所に向かった。
Res.2 by 無回答 from バンクーバー 2011/04/06 14:00:14

日本大震災:津波、静寂、街消えた 岩手・釜石で沢田さん記録/3

 2分ほどで事務所にたどり着いた。建物の入り口で職員が「早く、上がってください」と誘導する。階段を上がり、2階で旦那さんと合流した。そこには、町内会の人々の顔が並んでいた。一息ついて、鈴木さん夫妻に「これで安心ですね」と声をかけ、屋上に上がると、10人ほどが海を見ていた。

 その輪に加わり水平線を望んでいたら、「津波が来たぞ!」の声がする。見上げれば、港湾事務所の監視塔の窓から職員が双眼鏡でのぞいている。

 カメラをバッグから取り出し、135ミリのレンズで展望するが遠くて見えない。450ミリの望遠レンズに交換すると、津波が湾口防波堤を乗り越えて湾内に滝のように流れ込んでいるではないか。午後3時14分、最初のシャッターを切った瞬間だった。

 古来、数多くの津波に襲われてきた釜石。湾口防波堤は津波対策の切り札として、09年に完成した。長さ990メートルと670メートルの二つの巨大な防波堤が壁のように街を守ってくれるはずだったが、大津波はその防波堤をたやすく乗り越えて、徐々に水面を盛り上げながら港に迫る。ほどなく岸に激突し、巨大な白波が上がる。

 湾内には海上保安庁の巡視船と2、3隻の漁船が見える。船首を津波の方向に向け、エンジンを全開しながらあらがっているように見える。

 監視を続ける港湾事務所の職員が、拡声機で「津波が来ました。急いで避難してください」と繰り返す。「車いだ」「人がまだいる」。次々と声が上がる。

 津波は湾に流れ込む甲子川を遡上(そじょう)して、矢ノ浦橋の橋げたに迫る。同17分、橋上を男性が必死の形相で走り、その背後をタンクローリーと白い乗用車が疾走する。

 「危険ですから、もっと上に上がってください」と促され、監視塔のらせん階段を上がる。狭いスペースは人でいっぱい。人をかき分けて窓際に近づき、シャッターを押し続けた。


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Res.3 by 無回答 from バンクーバー 2011/04/06 14:02:07

東日本大震災:津波、静寂、街消えた 岩手・釜石で沢田さん記録/4

午後3時20分。津波は川の堤防を乗り越えて、対岸の松原町に流れ込んだ。公共ふ頭の先端にある倉庫が水没。ふ頭を洗うように波が押し寄せる。「来た!」。叫び声が聞こえた。

 津波は怒濤(どとう)のように牙をむき、建物を次々と粉砕して、トラックも藻くずのように押し流す。バケツの水をまいて路上のゴミを流すように、あまりにもあっけなく全てを破壊する。「ゴー」という咆哮(ほうこう)するような音が、全ての音をかき消している。

 同21分49秒。一段高い場所にある港湾事務所の駐車場にも津波が到達。あっと言う間に10台ほどの車を洗い流し、何軒もの家が形をとどめたまま流されてきた。

 同22分10秒。港湾事務所の周囲も全て水没。水面はがれきで覆われた。川と海と陸の境が見えない。川の対岸にある4階建ての釜石警察署の2階まで水没している。

 同23分6秒。200メートルほど内陸にある南リアス線の橋脚部分に、流された家がひっかかっている。周辺の松原町の住宅地ではあちこちから白煙が上がっている。

 同25分。津波の動きが突然止まり、一瞬の静寂が訪れた。監視塔を下りて、屋上から望遠レンズで自宅を探す。生まれ育った町並みはズタズタに破壊され、1軒隣にある鉄筋3階建ての3階部分だけが海面から頭をのぞかせている。悲しみも、悔しさも、怒りもなかった。ただ淡々と、津波に沈んだ街を見つめるしかなかった。

 同26分44秒。上流に流された家がゆっくりと下流に流れ始める。引き波の序章だった。矢ノ浦橋の橋げたが現れ、欄干に数台の車が引っかかっている。

 同28分7秒。引き波は急激に速度を増して、激流と化す。陸に上がった海水は真っ黒に変色し、潮が引いた跡に、根こそぎさらわれた家の土台と累々たるがれきが広がっている。

 同30分26秒、湾内の海の底が見えた。どんな大潮でも底を見せることはなかった。はるかかなたに見える湾口防波堤があちこちで決壊し、巨大なケーソンが転がっている。巨費を投じて建造された津波対策の切り札があっけなく吹き飛んでいる。

 同40分52秒。「3人いだ」。声が上がる。新日鉄の構内に十数メートルほどの高さに積み上げられた石炭の山の上に、男性2人と女性1人が避難している。「聞こえますか」。港湾事務所の職員が拡声機で呼びかけると、手が上がる。「第2波が来ますから、そこでとどまってください」。拡声機で指示を出す。

 同43分28秒。海面が再び盛り上がる。津波の第2波だった。

 同50分18秒。港湾事務所に1人の男性が歩いて近づいてくる。屋上に避難した人々が「急げ、こっちだ」と連呼する。上空に自衛隊のヘリが飛来する。

 同54分、港湾事務所の階段から下をのぞくと、建物の中に入り込んだ海水がぶつかる音が「ザブン、ザブン」と響いて聞こえる。

 津波は繰り返し続いた。川では引き波と激しくぶつかって波濤が割れる。湾内では巨大な台船が津波に翻弄されてさまよっている。

 同4時55分、上流から2階建ての家が流れてきた。窓に見える人影。「あ〜、2人いだ!」「手振ってる」。振り絞るような声が聞こえる。家はスローモーションのように川を下り、矢ノ浦橋の橋げたに衝突する。そして、崩れ落ちるように水面に沈んだ……。シャッターを押すのがためらわれ、ぼうぜんと階段にへたり込んだ。

 津波が収まり、再びシャッターを押したのは同5時30分だった。薄暮の中に静寂が広がり、立ち上がる汚泥のような異臭にめまいを覚えた。

Res.4 by 無回答 from バンクーバー 2011/04/06 14:04:51

東日本大震災:津波、静寂、街消えた 岩手・釜石で沢田さん記録/5

 電気が消えた街が闇に包まれていく。港湾事務所に避難した人は48人。職員23人とともに冠水を逃れた2階の会議室に集まり、職員が「大津波警報が解除されていないので、今夜はここで過ごしていただきます」と告げる。非常用のランタンを囲むようにみんなで座る。泣き声も怒声もなく、時折ため息が聞こえた。

 喫煙室にあてがわれた部屋に行き、たばこに火をつけて、ため息とともに紫煙を吐いた。そこに、車椅子に乗った男性が入ってきて、「たばこありますか」と言う。一本差し出して言葉を交わした。

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 「菊池」と名乗る松原町の漁師だった。地震が起きた時は、父親と漁船の手入れをしていた。父親は逃げ遅れて津波に巻き込まれ、本人は近くにあるプレハブの屋根に逃れたが津波に洗われ、隣の倉庫の屋根に飛び移った。それも、津波で壊された。たまたま流れて来た救命ボートに飛び乗り、ロープにつかまってそのまま上流に運ばれた。

 やがて引き波が始まる。鉄橋に近づいた時に、橋脚に巻かれたロープが見えて、とっさにしがみついた。すさまじい引き波に幾度も引き込まれそうになり、ズボンや靴や下着を持っていかれた。

 しばらくすると、丸太が1本流れてきた。それを引き寄せ、腕で抱えこらえていると、水の勢いが弱くなった。ロープを放し、丸太に覆いかぶさるようにして、平泳ぎで対岸にある港湾事務所を必死に目指した。距離は約100メートル。「なんとか対岸に泳ぎ着き、港湾事務所に避難した」と聞いた。

 両手両足はすり傷と打撲のあざだらけ。「女房と子どももやられたかもしれない」。淡々とした口調が切なかった。

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 その夜は、ひどく冷え込んだ。港湾事務所にある災害用の発電機を回し、1台のパネルヒーターを年寄りやけが人が囲んだ。

 日が変わった12日午前1時過ぎ。寒さに耐えかねて、たばこを吸いに部屋を出たら、外の非常階段付近に数人の職員がいて、津波を監視していた。

 空を見上げると、満天の星空が広がっていた。電気が消えた被災地の空は、透き通るように澄み渡っていた。「電気のない時代には、こんな夜空を見ていたんでしょうかね」。そう言って、みんなで空を見上げた。21世紀の空に広がる星の海。それは皮肉にも大津波がもたらした。言葉にできない思いにかられた。

 その夜は寝ずに明かした。同5時30分、東方の空が赤く染まり、残骸のシルエットが曙光(しょこう)に浮かぶ。同6時10分、がれきを乗り越え消防署署員が2人やってきた。見回すと、がれきの間にポツンポツンと人影が見える。

 同7時半、非常食のカレーを2人で1袋ずつ、分け合って食べる。

 あざだらけの菊池さんが「家族を捜しに行ぐ」と言葉を残し、足を引きずるように矢ノ浦橋を渡って行った。そして昼過ぎ、沢田さんも港湾事務所を後にした。

 「できることからやるべかな」。そんな思いを胸に、母校の旧第1中学に設置された避難所に向かって歩き始めた。
Res.5 by 無回答 from バンクーバー 2011/04/06 14:06:50

東日本大震災:津波、静寂、街消えた 岩手・釜石で沢田さん記録/6

 沢田幸三さんは地震発生時に持ち出したカメラのファインダーを通して、津波にのみ込まれる郷土を目の当たりにした。そのひとコマひとコマは、脳裏に焼きついて離れない。今は、釜石市内の避難所の駐車場に止めた運送会社の大型保冷車の運転席で暮らしている。この聞き書きは、その助手席でうかがった。

 激震の渦中に出て行った磯田志信さんとは先日、感動の再会を果たした。一緒に避難した鈴木さん夫婦は、19日午後に他の高齢者とともにバスで内陸の施設に向かった。「また帰って来っから」「待ってるからね」。涙を浮かべて見送った。




 沢田さんは言う。

「全てをなくして、大事なことを教わりました。物を失っても、不幸だとは思わない。被災地では仲間たちと互いに支えて生きている人々がいます。そんな人のぬくもりに元気をもらっています。釜石を離れようとは思いません。生まれ変わったつもりで、第二の人生を歩いていきます」






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