テロが相次ぐパキスタンで、過激派のタリバンの残虐行為などをブログで告発し、教育の権利を訴えた14歳の少女、マララ・ユスフザイさん。
そして、14歳の少女マララ・ユスフザイさんは、学校から通学バスで下校しようとしたところ、バスを止め、乗り込んできた2人の男に銃で撃たれました。
犯人らは「マララはどの子だ」と聞くなど、初めから彼女を狙っていたと見られています。マララさんは頭を撃たれ、意識不明の重体で、治療のためイギリスに搬送されました。
この事件でパキスタン最大の過激派組織「パキスタン・タリバン運動」が犯行を認める声明を発表しました。
マララさんはなぜタリバンに狙われたのでしょうか?それは、タリバンを公然と批判し、彼らの怒りをかったためと見られています。
事件があったスワト地区は風光明媚な観光地でしたが、3年前タリバンに占領され、状況は一変しました。パキスタン政府が融和政策をとり、タリバンの支配を事実上認めたため、タリバンはイスラム法に基づく厳格な統治を行いました。ムチ打ちの刑などが導入され、住民は迫害や人権無視の恐怖にさらされました。
こうした中でマララさんはイギリスのBBC放送のブログに日記を公開し、タリバン支配下の惨状を世界に告発したわけです。
これがそのBBCのブログです。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/450/134771.html
パキスタンの言葉ウルドゥー語で書かれ、マララさんは迫害を恐れてペンネームを使っています。当時彼女は11歳でした。
そこには、女性の教育の権利を認めないタリバンの支配下で、いかに過酷な生活を強いられたのか、その実態が克明に描かれています。
例えば、タリバンは少女の通学を禁止したほか、多くの女子校を爆破し、登校すれば顔に硫酸をかけると脅しました。また女性が市場に買い物に行くことも禁止しました。このため、マララさんは通学しているのが判らないように、制服ではなく、地味な私服を着て、教科書も服の下に隠し持っていたということです。
結局、タリバンはその後、パキスタン政府の大規模な軍事作戦によってこの地区から追い出され、マララさんたちはようやく解放されました。
タリバンの支配から解放されたあと、マララさんは本名を明かして、メディアで積極的に発言するようになり、タリバンを批判し、女性の教育の権利を主張し続けました。こうした彼女の考えは人権活動家で学校を経営する父親の影響があったと見られています。
マララさんの勇敢な行為は社会の大きな尊敬を集めました。去年、初めての国民平和賞を受けるなど、「タリバンへの抵抗のシンボル」とみなされるようになりました。
勇気があり、尊敬されていたマララさんをタリバンはなぜ狙ったのでしょうか?タリバンの報道官は「我々に反対し、欧米寄りの教育を広めようとしていたからだ」と犯行を正当化しています。
マララさんは殺害するとたびたび脅迫を受けていましたが、タリバン批判はやめませんでした。このため、タリバンの指導部は彼女を黙らせるには殺害するしかないとして、2人の兵士を差し向けることを決めたということです。
タリバンはこれまで政治家や軍人、西側の外交官を主な標的としてきましたが、最近は民間人も狙うようになってきています。
事件はパキスタンではどのように受け止められているのでしょうか?
この事件には、過激派のテロに半ば無関心になっているパキスタン国民も大きな衝撃を受け、怒りを募らせています。政府や議会、メディアも一致してタリバンを非難しています。パキスタンでは、反タリバンの抗議デモも各地で起きています。
イスラムは子供に優しくと教えているのに。
事件は国際的な反響も呼んでいます。アメリカのクリントン国務長官はタリバンを非難し、マララさんの勇気をたたえました。
パキスタンでは最近、反米感情や過激なイスラム思想が強まり、欧米寄りの発言をする政治家が暗殺されるなど、過激派を批判しづらい風潮が高まっています。こうした中で、パキスタンの指導部がマララさんと同じように過激派に対してノーと言える勇気があるのかどうか試されていると思います。