●通化事件もお忘れなく!
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★連行 [編集]
午前8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された。
また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。中国共産軍は連行する際、
日本人同士を針金でつなぎ合わせた。多くの日本人は着の身着のままで、家から連れ出されたため、
零下数十度になる戸外を行進するのは地獄であった。
通化市郊外の二道江から連行された人々には途中で落後するものもあり、落伍者はその場で射殺された。
★強制収容 [編集]
3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして、旧通運会社の社宅などの建物の各部屋に押し込んだ。専員公署では8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められた。
拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、
大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされた。
抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、
「精神に異常をきたし声を出すもの」などが続出したが、
その度に、窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。
殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされた。
「足元が血の海」になったが死体を外に出すこともできなかった
三日間に渡って、山中の倉庫に収容された中西隆も同様の体験をしている。
中西を始めとする90人余りの日本人は数日間に渡って立ったまま、
「すし詰め状態で監禁」されたため、発狂者が出るにいたった。
☛朝鮮人兵士達は黙らせるよう怒鳴るとともに、
窓際の6人を射殺し、「お前たちはそのうち銃殺だ。ぱっと散る同期の桜じゃないか。
36年の恨みを晴らしてやろう」と述べている。
☛蜂起計画に関与しなかった一般市民を含めて、
民間の2千人(数千人とも)近くが殺された。また、数百人が凍傷に罹り(かかり)不具者となった。
★虐殺 [編集]
拘束から5日後に部屋から引き出されると、
朝鮮人民義勇軍の兵士たちに棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。
「撲殺を免れた者の多くは手足を折られる」などした。
その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、
凍結した渾江(鴨緑江の支流)の上に引き出されて虐殺が行われた。
川岸に一人ずつ並べられた日本人が銃殺されて行く姿は、
皇弟妃浩によっても目撃されている。渾江の下流の桓仁では、中国共産党軍の兵器工場で働いていた
中村良一が、連日に渡って上流から流れてくる「日本人の虐殺死体」を目撃している。
女性にも処刑されるものがあった。川の上には、「服をはぎ取られた裸の虐殺死体」が転がっていた。
男性たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士には日本人住居に押し入り、
家族の前で女性を強姦する者もあり、「凌辱された日本女性」からは自殺者も出ている。
また事件後に、蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても容赦なく銃殺された。
林少佐には銃殺命令が3度出されたが、そのたびに政治委員黄乃一の嘆願によって助命された。
★人民裁判 [編集]
処刑の決定には、「人民裁判」と称する手続きがとられることもあったが、
法的な手続きとはいえないものであった。次のような証言がある。
「中国共産党の本拠地である延安から派遣された若い裁判官の前で、台の上に日本人が立たされる。
満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した、俺達を殴った」という声が上がる。
裁判長が「どうする」と問うと、「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。
その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された」[27]。
★百貨店での藤田大佐らの「展示」 [編集]
3月10日になると市内の百貨店で中国共産党軍主催の2・3事件展示会が開かれ、
戦利品の中央に蜂起直前の2月2日に拘束された孫耕暁通化国民党部書記長と
2月5日に拘束された藤田大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられた。
藤田は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪をひいているのか始終鼻水を垂らしながら
「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。心ある人たちは見るに忍びず、百貨店に背を向けた。
3月15日に藤田が肺炎で獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされた。
渾江(鴨緑江の支流)では夏になっても中州のよどみに、「日本人の虐殺死体」が何体も浮かんでいた。