●『昭和の日=昭和天皇陛下の日】
4月29日は『昭和の日』です。
1901年4月29日に、私達日本人を救った昭和天皇陛下がお生まれになったのです。
まずはこちらをご覧ください。完全なる昭和天皇の勝利であり、米国の敗北です。
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■昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム
http://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces&feature=player_embedded
焼け野原になり、大量虐殺された広島において、国民は天皇陛下を罵倒するどころか、
『天皇陛下万歳!!天皇陛下万歳!!』の大歓呼です。
下記は第二次大戦後、疲れ飢えて苦しむ国民を救う為、陛下が巡幸された記録の一部です。
■ 最初に「川崎の工場」
最初に訪れたのは川崎の工場でした。このとき、米の報道陣は戦勝国の横暴を隠そうともせず、
陛下を小突き回し、引っ張りまわしモミクチャにして写真を撮りました。
しかし、昭和天皇は嫌な顔ひとつしませんでした。
・警護していた日本人は・・・
「なんと雄々しいことだろうか。日本の再建のために、
今、国民の為に耐え難きを耐えていられるのだ」
天皇陛下のお陰で、川崎の工場の士気は鼓舞され、生産性は大変上がったそうです。
■ 静岡県
静岡県では、“巡幸反対を強く唱える共産党員”が居ましたが、
昭和天皇はまったく気にされず、お言葉をかけられたところ、
その共産党員は陛下がお帰りの際に、
陛下のお召車すれすれに顔を寄せて、「天皇陛下万歳!!!!」と叫んだといいます。
■ 軽井沢
軽井沢の駅で、昭和天皇のお召列車とすれ違ったとき、
婚約者を戦争で亡くした女性教師の一人は、「私は天皇陛下万歳と言いません!
そういう人間ではありません!!」と言っていました。
しかし、陛下のお召し列車が目の前を通り、陛下がお手を振られた時、
その女性教師は、「天皇陛下万歳!!!」と叫び、号泣していたといいます。
■昭和24年5月28日朝日新聞 原爆病のため面会謝絶中の永井隆博士を長崎で見舞って…
陛下は、ベッドに伏したままの永井博士にお近づきになり、「どうです病気は?」とお尋ねになり
「ハイ、おかげさまで元気でおります」と博士は答えると、
陛下は「どうか早く回復することを祈っています、著書は読みましたよ」と仰せになり、
このお言葉にいたく感激した博士は、「手の動く限り書き続けます!!」とお答えしたそうです。
長崎でも鉄道沿線には、人垣ができて、陛下のお召し列車を見送る風景が各地でみられ、
昭和天皇は「なるべく汽車の中での食事が無いように」と指示され、
人が居れば窓からお受けになり、長い間、手を振られていました。
■北海道旭川
昭和29年北海道では長万部、白老、旭川では、
「アイヌの伝統衣装に身を固めた長老達」が、日の丸を振りお出迎えしました。
長老の一人の言葉:「どういっていいか、涙が出るほどのうれしさで、長生きしていればこそ、
天皇、皇后さまにお会いできした。もういつ死んでも本望です!!」
■沖縄巡行(果たせず)
昭和62年、沖縄訪問をひかえていましたが、昭和天皇は慢性膵炎で倒れられました。
その思いを陛下はこう詠(よ)まれています。
「思わざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」
昭和天皇は、戦後8年かけて、全国46都道府県を巡行され、各地の視察と国民の激励をされました。
実は、巡幸が開始される前、米国は「日本国民が天皇陛下に投石するのではないか?」と
恐れていたのですが、事実は全く逆で、日本の国民は昭和天皇の巡幸を“熱狂的に歓迎”したのです。
そしてそれを見たGHQは、天皇制が強大になり過ぎるのを恐れて、
巡幸を「一時期中断させた」程だと言われています。
しかし、天皇陛下から激励を受けた多くの国民は、「復興への意志」を改めて強くし、
のちの経済大国日本の原動力にもなった事を、どうかみなさん、覚えておいて下さい。
これは私達日本人が、『決して忘れてはいけない歴史』なのです。