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無回答 2011/07/22 07:36:49
ウィキより:
日本の食人風習については、田中香涯「我国に於ける食人の風習」、南方熊楠「日本の記録に見る食人の形跡」などの論考に詳しい。日本には綏靖天皇が七人の人を喰ったという故事(『神道集』)をはじめとして、伝説の酒呑童子説話中の源頼光一行や、安達原の鬼婆の家に立ち寄った旅人等、説話にカニバリズムが散見される。「遠野物語拾遺」第二九六話と第二九九話には、遠野町で5月5日に薄餅(すすきもち)を、7月7日に筋太の素麺を食べる習慣の由来として、死んだ愛妻の肉と筋を食べた男の話が記録されている。また、中国のカニバリズムにある割股の話は、日本にも類話が見える(『明良綱範』)。『信長公記』によると、戦国時代に鳥取城が兵糧攻めに遭い、城の兵たちは草木や牛馬を食べ尽くした末、痩せ衰えた人間を銃殺して食い争ったとある[7]。江戸の獄門で処刑された死体で日本刀の試し切りを職とした山田浅右衛門が死体から採取した肝臓を軒先に吊るして乾燥し、薬として販売したとされる(これは人胆丸といい、当時は正式な薬剤だった)。随筆『新著聞集』では、元禄年間に増上寺の僧が葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだところ、非常に美味に感じられ、以来、頻繁に墓地に出かけては墓を掘り起こして死肉を貪り食ったという話がある[7]。戊辰戦争の折には幕府側総指揮官松平正質が敵兵の頬肉をあぶって酒のさかなにしたといい、また薩摩藩の兵が死体から肝臓を取り胆煮を食したという[8]。
確実な記録には江戸四大飢饉の時に人肉を食べたというものがある。また天明の大飢饉の際には1784年(天明4年)弘前で人食いがあったと橘南渓が『東遊記』で述べている[9]。 明治以降は、1870(明治3)年4月15日付けで、明治政府が人肝、霊天蓋(脳髄)、陰茎などの密売を厳禁する弁官布告を行っている(『人喰いの民俗学』)。しかし闇売買は依然続いたらしく、度々事件として立件、報道されている(東京日々新聞等)。作家の長谷川時雨は明治中期の話として「肺病には死人の水−火葬した人の、骨壺の底にたまった水を飲ませるといいんだが…これは脳みその焼いたのだよ」と、「霊薬」の包みを見せられて真っ青になった体験を記している[10]。
また、太平洋戦争中に起こった人肉食事件(通称ひかりごけ事件)は日本中を揺るがす大問題に発展した。 太平洋戦線の島嶼等(インパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナル等)でも、補給の途絶に伴って大規模な飢餓が発生し、しばしば死者の肉を食べる事態が発生した。1944年12月にニューギニア戦線の日本軍第十八軍は「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」と布告し、これに反して餓死者を食べた4名が銃殺されたという。奥崎謙三は映画『ゆきゆきて、神軍』で、上官が部下を処刑して糧食にしたと主張している。また、ミンダナオでは1946年から1947年にかけて残留日本兵が現地人を捕食したとの証言があり、マニラ公文書館に記録されている[11]。
なお連合軍兵士に対する人肉食もあったとされるが、多くが飢餓による緊急避難を考慮され、戦犯として裁かれることはなかった。ただし、殺害した米軍捕虜の肉を酒宴に供した小笠原事件(父島事件)は、関係者がBC級戦犯として処刑されている。罪状は捕虜殺害と死体損壊であった[12]。
なお、葬儀の場面でお骨を食べる社会文化的儀礼としてのカニバリズムは、全国に広く残っている。俳優の勝新太郎は父の死に際して、その遺骨を「愛情」ゆえに食したと、本人が証言している。昭和40年代まで全国各地で、万病に効くという都市伝説を信じて、土葬された遺体を掘り起こして肝臓などを摘出して黒焼きにして高価で販売したり、病人に食べさせたりして逮捕されていたことが新聞で報道されている(「明治大正昭和 事件犯罪大辞典」「新聞集成 明治編年史」)。いわゆる「闇の社会」では骨かみの特殊な習俗が継承されているとの推測もある [13]。
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