【安部総理の村山談話継承の理由-1】
ソース:月刊「正論」2月号「緊急対談・保守はこの試練に耐えられるか」P54〜P55
http://newsplus.jp/~mcqueen/uploader/src/up0371.jpg
2CHソース:【政治】「村山談話は破棄、安倍談話を出すつもり…が、日中共同宣言にも盛り込まれた壁は厚くやむなく継承」安倍元首相
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1231578065/
田母神論文に対するマスコミの反応は常軌を逸していました。自衛官は村山談話と異なる考えを一切持ってはならない、とする論調までありましたから。
政府見解に反すると言うが、例えばテロ特措法に批判的な考えを表明した自衛隊幹部を更迭したとしたら、マスコミはどう報じるか。
侵略と言う言葉にしても、いつの間にか政府見解として定着してしまいましたが、実は村山談話以前、政府は侵略という言葉を使っていないんですね。平成5年に自民党が野党に転落するまでは、どの首相も侵略という言葉を使っていない。竹下さんも踏みとどまっていた。
ところが村山談話以降、政権が代わるたびにその継承を迫られるよう
になる。
まさに踏み絵です。だから私は、村山談話に換わる安倍談話を出そうとしていたのだが…。
村山さんの個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られることはない。その時々の首相が必要に応じて独自の談話を出すようにすればいいと考えたのです。
むろん、村山談話があまりに一面的なので、もう少しバランスのとれたものにしたいという思いもありました。
ところが、とんでもない落とし穴が待っていた。平成10年、中国の江沢民国家主席が訪日した際の日中共同宣言に「(日本側は)1995年8月15日の内閣総理大臣談話(村山談話)を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し…」という文言が盛り込まれていたのです。
この共同宣言は、昭和47年の日中共同声明、53年の日中平和友好条約に次いで中国が重視していますから、日本が一方的に反古にすることは国際信義上出来なかった。
結局、私は内閣総理大臣として、村山談話の継承を表明しなくてはなりませんでした。しかし同時に、「政治が歴史認識を確定させてはならない。歴史の分析は歴史家の役割だ」と国会で答弁した。野党からは「それでは村山談話の継承とはいえない」と批判されましたが、戦後レジームからの脱却がいかに困難であるか、改めて実感しました。
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村山談話の呪縛の仕組みをやっと理解しました。江沢民との日中共同宣言での村山談話の盛込みが、それ以降の呪縛となってしまったとは…恐るべし江沢民。この呪縛を早期に解かなければ、いつまでも売国マスコミに踏み絵として利用され続けるのですね。安部さんの苦悩と努力がよくわかりました。
【村山談話】の破棄を【選挙公約】にして総選挙で勝利し、この呪縛を早急に粉砕しないと未来に禍根を残すことになると感じています。
現在の胡錦濤政権のうちに、解決できるといいのですが…
以上。
同感である。安倍元総理がどのような思いで闘っていたのかがよくわかる。安倍さんの復帰は願うばかりだが、それには多くの国民がマスコミに騙されて真実を見失っていたことを知らしめる必要がある。
メルマガには一度書いたがもう一度掲載しておく。
村山談話の異例の強行についてだ。
田母神氏の著書「自らの身は顧みず」の宣伝にもなる。以下、その文を引用する。
村山首相は、当時の土井たか子衆議院議長と組み、平成七年六月九日、「本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし」との通知を衆議院内に回し、卑怯にも、その通知を信じて多くの議員が各選挙区に帰った隙を狙って、
午後八時前、土井議長は本会議開会のベルを鳴らして、議員総数五百九人の内、二百六十五人の議員が欠席する異常な状況の下で、何とわずか二百三十人の賛成で、
村山談話同様の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議案」なる謝罪決議を強行した。
あまりにも汚いやり方で何の権威もなかったために、当時の参議院は、その「謝罪決議」の審議すらしなかったのである。
そのために、同「謝罪決議」なるものは宙ぶらりんの状態になってしまった。そこで、村山氏同年八月十五日、何の事前説明もなく閣議の席でいきなり、戦後五十周年の村山談話なるものを発表した。
以上。
村山談話、河野談話、この二つが我々の未来を苦しめる。踏み絵とは的確な表現であるな。何度も言うが,戦時中の中国と、今の中国は関係ない。このような談話は誤りであったとさっさと破棄させるように国民が強い意志を示さなければならない。
次のマニフェストに是非とも,村山談話、河野談話破棄を盛り込んでもらいたい!