日本とアメリカは1853年ペリーの来日により、国交が始まりました。翌54年日米和親条約を締結し、日本は開国しました。1905年日露戦争の終結に当たっては、仲介の労を執ってくれました。その頃までは特段の問題もなく、友好的に歴史は推移していました。その後次のような問題が出て来、次第に対立が表面化しました。
1.アメリカの西進
アメリカは19世紀後半西海岸まで国土を広げました。又1865年南北戦争終了後、急激に工業化が進みました。1898年ハワイを正式に併合、フィリピンをスペインから獲得しました。更に中国市場に進出しました。一方日本は1905年日露戦争に勝ち、更に1931年満州を独立させ、実質的な支配下に収め、中国市場に大きく影響力を持つことになりました。この両新鋭国の激突が大東亜戦争の根本原因だとする説が有力です。
しかしアメリカは1934年、フィリピンの独立法を制定し、1946年に独立させることを約束しています。これは経済摩擦、移民の自由化による労働摩擦によるものであり、フィリピンを植民地にしておくことが利益にならないことを悟ったからです。又アメリカは1922年「中国に関する9カ国条約」で関係各国の租借地を中国に返還させています。イギリスは香港を除き、チベット、威海衛等、フランスは広西省等の租借地を返還しました。日本もドイツから引き継いだ山東省の租借地を返還しました。
従ってアメリカには中国の中に植民地を作る野望はなく、ただ投資や貿易について、機会均等・交易条件の平等を要求していただけだと思います。満州事変以降、満州は勿論、北支でも圧倒的に日本の支配力が強まりました。その事が米支貿易にも影響したであろう事がアメリカの反日感情を煽った事は理解できます。しかし貿易高で見ると日本の方が中国より遙かに多かったのです。経済問題だけで日米戦争に発展するとは思えません。
アメリカの外交の歴史を見ると、経済問題が大きく出るときと、人権問題が大きく出るときがあります。大東亜戦争の原因について、中国市場の覇権争いと言う説が主流かと思いますが、私は人権問題が大きかったように思います。
2.満州の鉄道をめぐる問題
アメリカの鉄道王ハリマンは、1905年日露戦争終了後、ポーツマス講和会議中に来日し、満鉄を日米共同経営とする案を提示し、桂首相と予備調印して帰国しました。入れ違いで帰国した小村外相はこの案に強硬に反対し、この予備契約を破棄させました。 その後ハリマンはロシアの経営する東清鉄道(満州を横断し、シベリア鉄道に接続、ウラジオストックへの距離を大幅に短縮する鉄道)買収を計画しましたが、失敗しています。 このハリマンとの契約解除が、日米関係悪化の始まりという意見を述べる人が沢山います。
しかしアメリカでは昭和の初め、自動車の発達により、鉄道の経営は悪化しています。フィリピンでもセブ島の鉄道は廃線となり、ルソン島の鉄道も一時破産管財人により、細々と経営される事態になっています。大東亜戦争が始まった時点で、アメリカが鉄道をどの様に評価していたか、疑問も感じます。
ただハリマンの近親者と思われるアバレル・ハリマン(鉄道会社ユニオン・パシフィック会長)が、ルーズベルトの個人的知己を得ていたとのことにより、この問題が尾を引いていた可能性も感じられます。
いずれにせよ一つの棘になったことは否定できないと思います。
3.カリフォルニアにおける日本人移民排斥運動と人種差別の撤廃要求
1848年カリフォルニアに金鉱が発見され、アメリカ西部の開発が始まりました。それに伴い中国人の移民が始まったのです。日本人も1868年ハワイへの移民を皮切りに次第に増えました。それと共に人種摩擦が生じ、1882年に中国人移民排斥法が制定されました。日本人移民に対する排斥運動も1890年代に始まり次第に激化しました。
1905年日露戦争に勝利すると、欧米人の間に日本人に対する警戒心が出始めました。黄禍論と言われます。
1919年第一次世界大戦の講和会議がパリで開かれ、アメリカのウィルソン大統領は民族自決の原則を打ち出しました。又日本は民族差別の撤廃を主張しましたが、ウィルソンが「このような重要な問題は全会一致でなければならない」と言い、議長職権で否決しました。カリフォルニアで第2次排日土地法が制定されたのは、翌1920年です。日本人もアメリカでは被差別人種だったのです。
4.日米戦争論
1895年の日清戦争、1905年の日露戦争の日本の勝利、1898年のアメリカによるフィリピン領有は、中国の覇権をめぐる両国の警戒心を発生させました。1904年アメリカは日本を仮想敵国としたオレンジ計画を立てました。日本も1907年アメリカを第2仮想敵国とする帝国国防方針を立てました。
1913年ルーズベルト(大東亜戦争開戦時の大統領)は海軍次官補になっていますが、その年カリフォルニア州は日本人移民の農地所有の禁止令を出したことから、日本政府との摩擦が生じています。 その後も上述の日本人移民の排斥運動にリンクして、色々の人が日米戦争を論じました。日本人移民問題が激化した1920年代がピークとなりましたが、その後も中国問題をめぐり、日米戦争論は大東亜戦争まで続いたのです。
5.アメリカ人ジャーナリストとコミンテルンの暗躍
19世紀末から20世紀にかけ、貧富の差が拡大し、社会の矛盾が目立つようになりました。マルクスが共産党宣言を出したのは1848年です。この考えは貧富の差の拡大と共に次第に人の心をとらえ、1917年のロシア革命によりソヴィエト政府の成立に至りました。ソヴィエト連邦は全世界の共産化をめざし、1919年3月2日コミンテルンが結成されました。この年中国で始まった5.4運動はコミンテルンの指導によって始まったことは、ソ連側の文書により明らかになっています。
丁度この頃はウィルソンの民族自決主義に触発された朝鮮のキリスト教徒と、天道教徒が独立運動を引き起こしています。民族自決主義はヨーロッパのみを対象としたものであったことは、ウィルソンが民族差別撤廃に反対したことで明らかですが、朝鮮民衆、中国民衆は、朝鮮を併合した日本、中国に進出してくる日本にその標的を向けました。
又中国民衆の悲惨な生活を見たアメリカ人宣教師やジャーナリストは、共産党への幻想から次第にコミンテルン、中国共産党に近づき、彼らの宣伝機関となったのです。エドカー・スノー、ティルマン・ダーディン、アグネス・スメドレー等です。 特に山東省の宣教師の息子であるヘンリー・ルースの影響は多大でした。彼はタイム誌の創立者で、経営者です。1944年タイム誌はアメリカだけで116万部、週刊誌ライフは400万部を超え、1941年には5千万ドルの義捐金を集め、国民政府を支えたのです。
これだけ大きな犠牲を払って中国における利権を守ろうとしたアメリカは、戦争が終わるとすべての利権を失ったのです。ソ連との冷戦が始まりました。アメリカでは共産主義者の追放が始まりました。マッカーシー旋風と言われます。驚くべき事にルーズベルト政権の中枢に共産党のスパイがおり、ルーズベルトはすっかり共産党に操られていたことが判明したのです。その中心はハリー・デクスター・ホワイトとロークリン・カリーです。ホワイトはルーズベルトが最も信頼するモーゲンソー財務長官の片腕として、1941年に筆頭次官補、45年には次官まで昇進しました。カリーは中国問題担当の大統領特別補佐官です。
更にエレノア大統領夫人は共産党のシンパと言われています。更にルーズベルト本人の母方のデラノ家は香港を中心に阿片貿易で巨万の富を築いており、その縁で親中国でした。更に彼は田中メモリアルを信じていました。田中メモリアルとは田中義一首相が昭和天皇に上奏したと言われる「満蒙積極政策」で「将来中国制圧を欲するなら先ず米国を倒さねばならない」「世界を征服しようと思うなら先ず中国を征服しなければならない」と書かれていたと言われます。この文書は戦前・戦中を通じ、日本のアジア侵略の計画性を証拠づけるものとして盛んに引用されました。しかし今日では、この文書は中共により偽造されたものだというのが通説になっています。
更に日本でも近衛首相の有力なブレーンであった尾崎秀美が、ゾルゲ事件でソ連のスパイだったとして処刑されています。私は大東亜戦争の原因はコミンテルンの陰謀に、日米共にのせられたものだと思います。と共にアメリカが共産党について余りにも無知だったことが大きいと思います。
6.日独伊三国同盟
第一次世界大戦の後、戦後の混乱を終結するため、イタリアではムッソーニが、ドイツではヒトラーが政権を握り、独裁体制を作りあげました。彼らはクーデターで政権を握ったのではなく、選挙で選ばれ、民衆の支持を得て、合法的に独裁体制を築いたのです。民主主義は決定に時間がかかり、混乱を収拾するためには、独裁政治の方が適しているのです。
日本が満州事変を非難され、国際連盟を脱退したのが1933年です。この年ドイツでは1月にヒットラーが首相に任命されました。世界不況で激化する労働運動対策として、共産党・社会民主党を次々追放し、独裁体制を固めました。更に国際連盟に軍備保有権の平等を求めて拒否されました。それにより日本にならい、国際連盟を脱退しました。共に国際関係の孤立化を招いた両国間に協調を求めるムードが生じたのでした。
1935年第7回コミンテルン総会で人民戦線テーゼが採択され、国際的に連帯し共産革命を推進することが決議されました。この年イタリアがエチオピアに進出し、国際連盟と対立、翌36年エチオピアを併合しました。この36年ベルリンオリンピックが開催され、ドイツの急激な発展が目を引きました。そして共産党の脅威に対抗し、日独防共協定が締結されたのです。それと共にドイツとイタリアも連携を深め、37年日独伊の3国による防共協定が成立しました。この事はイギリス・フランス・アメリカの警戒心を呼び起こし、第2次世界大戦への道筋が出来上がったのです。
尚この時点では、ドイツ・イタリアは蒋介石軍に軍事援助していました。彼らが蒋介石支援を止めたのは、南京事変の直後です。日独伊三国防共協定が軍事同盟である三国同盟に発展したのが、ヨーロッパにおける第2次世界大戦が始まった翌年の40年です。この事が日米開戦の大きな誘因になったのです。
http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu_f_1.html