もしかしたら尾崎ファンなら真実を知っているかもしれない。
以下引用
http://bbs2.mbsp.jp/ch.php?ID=cyosenf*ck&c_num=147105
尾崎豊疑惑の死に関する裁判について
ジャーナリストの永島雪夫は独自の調査から尾崎の死は他殺であるとある新聞紙上で断言し、証拠の実証をはじめた。その内容は尾崎豊は第三者によって殺されたのだという内容である。その第三者とは繁美夫人と当時男友達であった田崎、そして実行犯である暴力団関係者である。
理由は尾崎豊が夫婦仲の冷え切った創価学会員繁美との離婚を決心したことに気付いた繁美が当時男友達であった田崎と共謀し、別れる前に尾崎の財産目当てに殺したのである。
尾崎に何らかの方法で致死量以上の覚醒剤を飲ませたのだ。またその後の暴行も疑われる。という内容を証拠を挙げて事実であると証明し始めた。ところが、核心に近づいた時、繁美が、この永島雪夫のやっていることは自分に対する名誉毀損である!と言い出して裁判を起こした。これを尾崎裁判と尾崎ファンは呼んでいる。
裁判は既に終わっており、永島氏が繁美に賠償せよ、というもので、繁美の言い分が全て認められたかにみえる判決になったが、部分的に見ていくと、尾崎の死は他殺の可能性を残している、という結果ともなり、永島氏の尾崎関係の著作物も全面的には出版差し止めにならなかったことから、繁美が望んだ判決からはほど遠い内容になった。
つまり尾崎の死について、この裁判はますます不透明さを増加させたと言っても過言ではない。
尾崎が自殺したという件は千住署の調査によりすでに否定されており、だがしかし尾崎自殺説を事実だとふれ回る一部マスコミ、
1994年4月、永島は尾崎豊の死の疑惑を夕刊フジ、週刊宝石で追及した。そしてテレビ朝日と連携し取材を進めたところ、夫人がある人物に「謀殺」を「依頼」していた事実をつかみ、依頼された人物のインタビューに成功した。テレビ朝日はこの重要な証言を放送すべく準備していたまさにその時、奇怪なことが起きた。繁美が週刊文春で突然「自殺説」を展開しはじめたのだ。その根拠は尾崎が持ち歩いていたセカンドバックに「遺書」があったから尾崎は「自殺」したのだと言い出した。だが、尾崎が持ち歩いていたセカンドバックに「遺書」はなかった。
千住警察署では尾崎を保護した時点で所持品のセカンドバックはもちろん、現場にあったすべての物を写真に撮り詳細に記録していた。ありもしない「遺書」は当然ながら千住警察署によって真っ向から否定された。幻の「遺書」を持ち出したためにあらたな疑惑をかけられ追いつめられた繁美がとった行動は、永島個人とテレビ朝日への提訴だった。
提訴が行われるまでの不自然な経過でも分かるように裁判そのものは重大証言の放送を阻止するためのもので、それは一審の裁判官が「和解しろ、和解すれば金は払わなくてもいいようにする」と和解仲裁を5回に及んで行ったことにも提訴の意味が現れている。テレビ朝日は一審判決後、和解したが、永島は事実関係が審理されていないことを不服として高裁に上告した。高裁判決では一審で否定された取材、覚醒剤の量、死因の3点についてはじめて認めた。 尾崎の死因には覚醒剤が絡んでいたこと、そして尾崎の死因は不思議で疑惑があると認定し、取材も相当に行ったことを認めたのだ。しかしながら、ここでも重要な事実審理は行われることはなく死の疑惑の最大のポイントとなる白髭橋病院の医師の言動は、尾崎の状態を知る上で極めて重要なものである。しかし、裁判官は最後まで医師の証人尋問を拒否し続けたのだ。これでは事実が明らかになるはずもない。裁判官は我々が提出した医師のインタビュー記事の一部だけ、つまり危険はないような部分のみを取り上げ、危険な状態を否定した。こうして永島の敗訴となった。永島は当然ながら高裁判決(2審判決)を不服とし、最高裁に上告した。しかし、残念ながら2002年2月8日、上告棄却が決定した。これにより2審判決が確定したのた。この裁判は1994年9月に提訴され、1994年11月7日の初公判以来、約8年に及んで行わた。永島は8年間、裁判を抱える生活を送ってきた。裁判の負担は非常に重たいものだった。しかし最後まで戦えたことは多くの尾崎ファンの支援(カンパを含む)によるものだった。裁判そのものは「名誉毀損」とはいうものの実体は損害賠償請求事件である。『この記事で傷ついたから公に謝罪しろ、慰謝料を払えと』いうものだ。裁判は敗訴となったが、8年間の戦いが無駄ではなかった。まず第一に、一審の裁判では裁判官との熾烈な交渉の結果、疑惑の繁美の証人尋問を実現し、矛盾だらけの証言を引き出し記録に残したこと。そして第二に、控訴によって判決理由を部分的ながら否定させたこと。そして尾崎の死因に疑惑があるということはこの高裁判決でようやく認定されたわけだ。
高裁の裁判官が尾崎の死因について「原因は不明であり、さまざまな疑問が残る」と認定したことは8年に及んだ戦いの唯一の成果となった「自殺」については千住警察署によって完全否定されている。
自殺説の根拠となった「遺書」は尾崎が当日持っていたセカンドバックに入っていたと主張したの千住警察署で確認したところ証拠保全した中に自殺した証拠は一切なかった。
繁 美 貴 様 が
や っ た
ん だ